2015年07月02日
問うこと、哲学すること

「生命学をひらく」(森岡正博 トランスビュー 2005)
僕が大学生活で学んだことを一言で表現すると、
「農を通じた哲学」になるのだろう。
「環境問題をなんとかしたい」
と思って入学したその先には絶望が待っていた。
時、すでに遅し。
僕は大学に来た意味を失った。
2年生の終わりに、
同世代で活躍する人たちの姿に、
完全なる敗北を喫し、プライドが崩れ去った。
サークル「有機農業研究会STEP」の立ち上げ。
ここから僕の新しい人生が始まる。
自分で畑をやること
農家に話を聞きにいく
そして、本を読むことだった。
豊かさとは何か?
環境問題とは何か?
教育の目的とは何か?
自然とは何か?
という答えのない問いに挑んでいた。
それを「哲学する」と言うのかもしれない。
自然農の川口由一さんの何とも言えない雰囲気に圧倒されて、
「おっかけ」をやっていた。
全国どこでも川口さんの講演があると聞けば、飛んで行った。
そんな中で、「東京賢治の学校」(現:東京賢治シュタイナー学校)
に出会う。
そこでのイベントのひとつが冒頭の森岡正博さんの講演だった。
「生命学」というジャンルで、大学に立つ森岡さんは、
10年前書かれたこの本の中で、
いまの18歳~20歳は「何のために生まれてきたのかわからない」
と実感していると言います。
「生きる意味」そのものを失っている。
これが今である。
と言います。
しかしそれは、哲学の出発点であるし、宗教の出発点であります。
僕は、それは、
明治維新から始まるわずか150年の
「共通の目標」=富国強兵、殖産興業
(現在では「経済成長」ですが)
があったことによる、
「哲学」、「問い」の相対的重要性の低下
によると思っています。
共通の目標があったとき、
それが何より優先されて、
個人の哲学は軽視されます。
それがいま、共通の目標が失われ、
多様な価値観が叫ばれる中で、
人はアイデンティティの危機に立たされていると思います。
アイデンティティのベースとなる哲学がない。
このことは人を不安にさせます。
本書では、「宗教」と「国家」がその問いを問わせない
「目隠し装置」になっていると指摘します。
人は本来、哲学なくして生きられない。
哲学とは「いかに生きるか?」ということです。
きっとそれを問うために、
大学生活の4年間はあるのでしょう。
その問いを始めること。
それはきっと早いほうがいいのだろうなと思います。