2015年07月14日
「大きな物語」なき時代を生きるために
「物語」を自分で創らなければいけない時代。
土曜日のワークショップで、
「豊かとは、選択肢が多いことだ」と言った人がいた。
そう。
僕たちは選択肢の多い「自由」な社会を生きている。
明治維新以来、
僕たちは、共有すべき「大きな物語」を持って生きてきた。
「富国強兵」「殖産興業」「経済復興」「経済成長」
個人ひとりひとりの「物語」は、
その大きな物語の中のほんの一粒の小さな物語だった。
みんなが同じ物語を共有することで、
安心感と仲間への連帯感が生まれた。
自分がなんとかするのだという使命感もあった。
バブル崩壊からの20年を「失われた20年」というが、
そのときに失われたもののひとつが
「大きな物語」だったのではないだろうか。
そして今。
未来がまったく予測できない時代に生きている僕たちが
抱えている、不安感、喪失感の大きな要因のひとつは
そこにあるのだろう。
選択肢の多い「自由」と引き換えに、
僕たちは「大きな物語」を失ったのだ。
「大きな物語」を喪失し、
ひとりひとりが「物語」を描かなければいけない時代。
自分自身の「小さな物語」を描くために、
哲学が必要なのだろうなあと。
何を大切にしていくのか?=価値観と
何を美しいと思うのか?=感性
のふたつを形成していくことで、
その先の志が見えてきて、
それをつなぐのが物語=生き方
になっていくのだろうと。
「物語」のある人生を生きる。
その物語にはどんな登場人物が必要なのだろう。
何に価値を置き、
何を美しいと思い、
物語をつくっていくのだろうか?
おそらく、それが
「哲学」とか「誇り」とかなんだろうなあと思う。
その「物語」をつくりあげるために、
「地域」をフィールドに何ができるだろう?
「地域」で活動する意味はなんだろう?
そのことによって「地域」はどうなるのだろう?
僕は若者が地域(特に高齢者地域)で活動する意味は、
そのような「哲学」と「誇り」の相互作用にあるのではないかと思う。
若者は自らの「哲学」を形成するために、地域の「誇り」に触れる。
地域は、若者のまっすぐな心を受けて、「誇り」を思い出す。
きっとそういうところにあるのだろうと思う。
僕の価値観では、
「地域が活性化すること」に価値があるのではなく、
ひとりひとりが「哲学」や「誇り」を持って今日1日を生きることにこそ
価値があるのだと思うから。
土曜日のワークショップで、
「豊かとは、選択肢が多いことだ」と言った人がいた。
そう。
僕たちは選択肢の多い「自由」な社会を生きている。
明治維新以来、
僕たちは、共有すべき「大きな物語」を持って生きてきた。
「富国強兵」「殖産興業」「経済復興」「経済成長」
個人ひとりひとりの「物語」は、
その大きな物語の中のほんの一粒の小さな物語だった。
みんなが同じ物語を共有することで、
安心感と仲間への連帯感が生まれた。
自分がなんとかするのだという使命感もあった。
バブル崩壊からの20年を「失われた20年」というが、
そのときに失われたもののひとつが
「大きな物語」だったのではないだろうか。
そして今。
未来がまったく予測できない時代に生きている僕たちが
抱えている、不安感、喪失感の大きな要因のひとつは
そこにあるのだろう。
選択肢の多い「自由」と引き換えに、
僕たちは「大きな物語」を失ったのだ。
「大きな物語」を喪失し、
ひとりひとりが「物語」を描かなければいけない時代。
自分自身の「小さな物語」を描くために、
哲学が必要なのだろうなあと。
何を大切にしていくのか?=価値観と
何を美しいと思うのか?=感性
のふたつを形成していくことで、
その先の志が見えてきて、
それをつなぐのが物語=生き方
になっていくのだろうと。
「物語」のある人生を生きる。
その物語にはどんな登場人物が必要なのだろう。
何に価値を置き、
何を美しいと思い、
物語をつくっていくのだろうか?
おそらく、それが
「哲学」とか「誇り」とかなんだろうなあと思う。
その「物語」をつくりあげるために、
「地域」をフィールドに何ができるだろう?
「地域」で活動する意味はなんだろう?
そのことによって「地域」はどうなるのだろう?
僕は若者が地域(特に高齢者地域)で活動する意味は、
そのような「哲学」と「誇り」の相互作用にあるのではないかと思う。
若者は自らの「哲学」を形成するために、地域の「誇り」に触れる。
地域は、若者のまっすぐな心を受けて、「誇り」を思い出す。
きっとそういうところにあるのだろうと思う。
僕の価値観では、
「地域が活性化すること」に価値があるのではなく、
ひとりひとりが「哲学」や「誇り」を持って今日1日を生きることにこそ
価値があるのだと思うから。